さよなら真冬の夜の夢

受験生をやっている間に、一生に一回の恋をした。
仰々しいが本当である。
そもそも恋とは何ぞやなど、18かそこらの小娘にわかるはずがなくて、彼氏がいたこともあるけれど、彼には失礼だが子供の遊びみたようなものだった。そいつと別れた後も、別に泣いたりしていないし、今でも友達だ。
でもたぶんあれは恋だった。
激烈だし、大きすぎたし、叶わない恋だった。

弁解するが初めはファンだったのだ。
3年になって初めて私の授業を持ったその人は、高校に入ってから(我が母校は中高一貫なのだ)うちの学年を持った人だった。高1頭の自己紹介で「修学旅行先で見かけても石を投げないでください」などと言ったため、あいつはやべえぞ、と皆なんとなく思っていた。私もその一人だった。
高3初めての授業の日、その人はプリントの束だけ持ってふらりと教室に現れて、挨拶もすることなく、プリントを配り、否、係に配らせはじめた。そんな先生はそういなかった。
その人はよく分からなかった。生徒の名前は覚えてないし、授業開始から3分は遅れるし、授業が終わったらすぐ帰ってしまう。質問するには、終了と同時にふらりと教室を出て行く彼を、追いかけていくしかなかった。
数学が大嫌いな理系だった私にとって、その人が持っていた数3という教科は、正直無理だった。だけど、なんとなく、この先生当たりなんじゃないか、とは思った。無理だったので授業で寝てたし、テストの点は散々だったけど、段々面白いってことが分かってきた。というか、彼がそれを、世の中の他のどんなものより面白がっているということが分かってきた。

いつから、ふんわりと、好きになったのかは分からない。
夏休みに、数学で100点をとれると銘打った彼の数学語りを2時間3日間聞き続けた頃からかもしれない。
文化祭の後夜祭でバンドアレンジの乃木坂の曲をマジで歌っていたのを見た時かもしれない。
他の何気ない授業の時かもしれない。
とにかく、10月23日には、私はMK5といった感じだった。
配られたプリントの、授業で解説がなかった問題を全部解いて、持って行った。質問の予約までとって、放課後を待った。髪を結び直して、唯一持っていた香水(といっても、香りは薄くしかつかないやつだ)をふった。恋する乙女などという言葉はしかし、笑い飛ばせていた。
質問そのものはかなりとんとん拍子にすすんだ。幸いにも、私が出した答えはほとんど合っていた。どうも距離が近くて、いつものボルドーのシャツがカーディガンの袖口から覗いていた。指が長かった。
一通り聞き終わって教室を離れようとした。そうだ、と声をかけられて、どうして今まで正気でいられたのか分からないくらい緊張した。恋か?これ、と思った。
お嬢さん、お名前は、と聞かれた。
あ、○○(名字)です、と名乗った。
いや名乗ったあとの記憶がほとんどない。多分なんか話した。覚えてないけど。
前述のように、この人は生徒の名前を覚えていない。数少ない、名前を覚えている生徒の中に、私は入ったのだ。ただそんなことは私は考えなかった。
お嬢さん、である。
控えめにいってもこの人は人と話すのが下手だ。その人の呼びかけが、お嬢さん。
だめだこれ、と思った。

その後、他のクラスの人たちから、あの先生結婚してるらしいよ、と教わった。
私の恋は音を立てて終わった。終わったというか、終わらせることにした。終わるわけがないのだけれど。
機会があれば顔を見ようとした。そのたびに辛くなった。授業のたびに、数学に集中するのに必死だった。

ずいぶん経った。私は大学受験を終えて、卒業式に臨んだ。あの空気を読まないウイルスのせいで縮小されてしまったが、まあそれなりの規模だった。
担当教員はほとんど壇上にいる、という状況の中、彼も無論壇上にいて、その姿は多分一生忘れられないだろう、と思った。

これで全てだ。まあ、恋らしくないといえばそうだし、よくまあ恥ずかしげもなく、ともいえるだろう。
ただ私は今でも、彼の歩き方も、口調も、指の長さも、克明に思い出せる。それはもう恋ではないけれど、きっとずっと記憶に残り続けるだろう。
さよなら、真冬の夜の夢。あなたに恋ができて、私は幸せでした。