フェミニストを憂う:青識亜論氏のnoteから考える

青識亜論氏のnoteを拝読した。

note.com

本稿では、青識氏の稿において語られた「お気持ち対お気持ち」の構図にあることを自覚しながら、オタク兼フェミニストとして、「萌え絵を規制せよ」という言説に反論しようと思う。青識氏ほど論理的な言説となるかは分からないが、この問題において対立軸にあると考えられている二属性を同時に持つものとして精一杯書く所存である。

1. 萌え絵は規制されるべきか―第一弁論

まず根本的に、萌え絵というのは何なのかという話である。これについてはWikipediaの定義を参照していただきたい。
ja.wikipedia.org

萌え絵の対象となるのは、おおよそ10代の少女である。特徴としては、顔の大きさに対して目が大きいこと、口が小さいことが挙げられる(Wikipediaより引用)

この「おおよそ10代の少女」というのがフェミニスト的には問題なのだろう。いわゆる「未成年を性的にみている」とかそういうこととしてである。
で、この萌え絵というのは、対象を性的にみているといえるのだろうか?それは、私の個人的な見解だが、言えない、と思う。萌え絵、というのはあくまで「おおよそ10代の少女」を「顔の大きさに対して目が大き」く、「口が小さ」く描く「画風」とか「画法」の一種であり、完全に性的な目線において描かれたものであるとは言えない(そもそも、どのような絵が「対象を性的に見て描かれた絵」といえるのか不明である)。
Wikipediaにも「萌え絵批判」については触れられている。

萌え絵は企業や地域のマスコットキャラクターやメディアに起用されることもあるが、不適切な場面で一定の要素(子供の目に触れる場面で不適切な身体パーツ、ポーズ、表情、服装などが取り入れられているなど)が含まれると駅乃みちか・碧志摩メグ・キズナアイなどのように一部から批判をされる可能性があるため、状況に応じて絵柄的な配慮や起用キャラクターの選別が必要とされる(Wikipediaより引用)

この場合の「不適切な場面で一定の要素が含まれる」とはどういうことなのか。それは単に、ある人達が「これは不適切な場面である」「これは性的な一定の要素である」と主張しているだけなのではないか。次の項では、規制派による「萌え絵の不適切さ」に対して反論しようと思う。

2. 規制派への反論その一―萌え絵が不適切になるとき

萌え絵が不適切になるときというのはあるのだろうか。勿論、ところ構わず萌え絵を使えば良いということではない(訴求力の点でもっと相応しい絵柄が存在することもある)し、萌え絵に対して否定的感情を抱く人のその否定的感情を否定することはあってはならない。しかし、それがパブリックに不適切であるかどうかとは別である。「私が不快だから撤去しろ」という言説がまかり通るならば、公共の場には何も置けなくなるだろう。暖かい家庭の図は家で虐げられた人を傷つけ得るし、順調な異性愛のラブストーリーは恋愛に障壁を感じる同性愛者を傷つけ得る。個人的な感覚と、公共の規制とは、判断基準は(人が不快になるものの規制という点で)同じ基底にあれど、全く同一のものではない。

ではパブリックに不適切なものとは何だろうか。例えば、アダルトビデオはビデオ屋で奥に配置されゾーニングされているし、先般話題となった少女型ラブドールも街を歩いていて偶然目に入るようなところには売られていない。そういう直接に性的なものはゾーニングされ、人の目につくところには置かないというのが「パブリックに不適切」の例である。この範疇に萌え絵は入るのかというのが論点であろうが、あの萌え絵という画風がそれそのもので直接的に性的であり「パブリックに不適切」であるとは言えないと考える。これは第1項で触れた。

つまり、一般的な萌え絵が不適切となるのは「訴求力の点で不適切」であるときのみであり、「パブリックに不適切」となることはないといえるだろう(勿論過度な露出を伴うものはこの限りではない)。

3. 規制派への反論その二―絵の「体型」に関する批判?キャラの「属性」に関する批判?

そもそも私は冒頭で表明したようにフェミニストである。リベラリストでもあるつもりでいる。KuToo運動にも(基本的には)賛成であるし、社会的な性別に役割が固着することなくみんなが自分の生きたいように生きられればいいなあ、と思っている。しかし最近のいわゆる「ツイフェミ」たちは、本来のフェミニストの姿を見失っているように感じる。

顕著に感じたのは宇崎ちゃん論争の時で、あれを性的と見てしまうのがそもそもバイアスなのではないかという感覚であった。服は着ているし、実際あのような体型の(というか胸の形の)人は実在する。勿論萌え絵というのはデフォルメの一種であり、その画風は宇崎ちゃんにも受け継がれているのだけれども、上下とも着衣の状態であり、何か卑猥なことを言っているわけでもない。これは「パブリックに不適切」とは言えない。

そして「君野イマ・ミライ論争」である。これに関しては正直な感想を述べれば、ぞっとした。私自身、「158cm女子高生」だった時期が、あまり遠くない過去にあったからである。これが、この絵やこの属性が、男性目線であり批判すべきものであるなら、オタクでありかつてスカートがそれなりに短い158cm女子高生であってアイスクリームが大好きでありかなりぐうたらな私はどうやって、まっとうなフェミニストになれるだろうか。男性目線で媚びた属性もりもりだが。フェミニストたちは私のことを名誉男性と呼ぶのだろうか。実在の人なら良いけど二次元の被造物だとだめなのか?これが、この広告がだめなら、「心理的に傷つき得る三次元の女子高生に」「年上の男性を」「心理的に持ち上げる役をやらせる」docomoのCMの方がよほど気色悪いだろう。あのCMを批判している人はついぞ見たことがないが、フェミニストの皆さんは見たことがないのだろうか。あのCMは男性側も馬鹿にしている(年下の女の子にちょっと褒められたらホイホイ金を落とすという見方)。

話を戻すが、君野イマ・ミライは、萌え絵であるという理由で批判されるものでも、女子高生設定であるという理由で批判されるものでもない。強いて言うなら「環境問題に興味がない=ぐうたら」というラベリングはどうかとは思うが、それは「この広告に萌え絵は不適切である」という言説や「この広告に女子高生という設定は必要ない」という言説とは関係のないものである。

4. 結論―憂フェミニスト
本来、フェミニズムとは、「女性らしさとか、女の子なんだからとか、そんなものに縛られずに生きる道があったっていいじゃない!」という、自由を謳歌せんと女性が社会に対して掲げた挑戦であり、一つ一つの勝利に、自由に対する凱歌だったはずだ。しかし今やフェミニストたちからうかがえるのは、男という性別への怒りや憎しみや恨みであり、自由への凱歌を歌うような余裕は一つも感じられない。いつだって属性全体の批判に飛びつけば、その中の多様性を否定する危険が付きまとう(いわゆる主語デカ構文)。男性でありながらフェミニストであることは可能である、女性が男性と同様に(逆も然りだ)自由に生きていくことを肯定しさえすればよいのだから。しかし今のフェミニストを見ていては、不可能であると思われても仕方がない、男であるということそのものが罪であるように扱っているのだから。

萌え絵に対しても同様である。女性が自由に世界を闊歩する自由があるのと同様に、萌え絵を描く自由はある。そうして正規の手続きを経て、それが広告に採用されるのであれば、そこに「萌え絵を広告に採用する自由」が存在する。オタクでありながらフェミニストであることが可能であるにも関わらず、不可能なように思えるのは、上記の男性の理論と同様である。

本来のフェミニズムであれば、どのような体型の女性がいても、どんな格好をしても、「あなたの自由」であったはずだ。それこそが、服装や体型の呪縛から自由を勝ち取ったフェミニストたちの凱歌であったのだ。しかし今、体型に政治的正しさを求めてしまえば、それはもはや自由ではなく強制である。属性に多様性ではなく正しさを求めるとき、「正しい属性とは何か?」という問いが付きまとう。フェミニズムとは何か?それは自由と多様性を勝ち取る戦いであったはずだ。決して、本来多様であるべきものに正しさを強要する行為ではないはずである。今、本来のフェミニズムの姿を、私たちは見失ってはいないだろうか。

5. 補:オタクでありフェミニストの私がお気持ち表明した理由
私は宇崎ちゃん論争の時、特に発言しないで置いた。別に知名度は全然ないし、言ってしまえば「関係ない」と思えたのだ。献血の広告にも宇崎ちゃんにも興味が大してなかった。

しかし、君野イマ・ミライ論争になって、さすがに問題がある、と思った。ごく普通にいる属性である少女を描いて広告としたものが、どうしてこのように炎上するのか。絵柄がダメなのか。そもそも絵を使うなということなのか。

その状態で上掲の青識亜論氏のnoteを読んだ。正しい言説だし論点も分かりやすいのだが、完全にフェミニストとオタクが対立項として扱われていたのが腑に落ちなかった。フェミニストであり、オタクであり、表現規制に反対している、となると、おそらく青識氏の区分けではオタク側に分類されるのであろう。しかし私の自認としては完全にフェミニストでありながらオタクであるので、どちらかを無視することは出来なかった。フェミニストでありながらオタクであるのは難しい。フェミニスト(と自認する人々)とオタクは、なぜだか対立してしまうからである。その対立構図を何度も見てきた。しかしこの広い世の中、それこそ多様性の概念によって、フェミニストとオタクのベン図を書いてその重なるところに人がいるのは、おかしなことではないではないか。

フェミニストでありながらオタクである、男性である、その他諸々いわゆるフェミニストに反感を買っている属性を持つ人々に言いたい。いいじゃないか。いかなる属性を持つ人間もフェミニストになることが可能だ。性別や人種や性的指向による社会的バイアスに縛られず各人の自由に生きていけるように願い、それを邪魔する偏見や差別に怒りを覚え、抗議し、自由の権利を行使しさえすれば、誰だってフェミニストだ。