遊戯場

2021年度 織田作之助青春賞 応募作品(三次審査落ち)



遊戯場
 
JR新宿駅の東口を出ると、七月真昼間の東京は恨めしいほど暑かった。いくら取材でも七分袖のブラウスなど着てくるべきではなかった、私は袖のボタンを外して二つ折った。鞄の中のメモ帳とボールペンをついでに確認して、待ち合わせ場所のドトールに向かう。徒歩五分の道のりもこう暑いとつい、億劫になる。
彼女は既に窓際の席で待っていた。髪は派手に染めても巻いてもおらず、ごく普通の会社員と言われても信じてしまいそうだ。丁寧に化粧はしているようだがこちらも派手ではない。こちらに気づいた彼女は一つ手招きして、微笑した。その笑みに何かが脳裏を掠めた。誰かが頼んだのだろうか、店にキャラメルソースの苦い香りが流れた。

「暑い中ありがとうございます、こんなところまで。何飲まれます? いいですよ、私買ってくるから」
「あ、じゃあ、アイスティーを……」
「わかりました、少しお待ちくださいね」

するりと立ってカウンターに歩いてゆき、アイスティー一つとアイスカフェ・モカ一つ、とよく通る声で注文する彼女の横顔は、同性の私から見ても明らかに美しい。嫉妬の情すら浮かばない、とでも言えば伝わるだろうか。彼女はグラスを持ってきて私の前に腰掛け、ストローを袋から出してグラスに入れてくれ、グラスの水滴をナプキンで拭いてくれ、そこで、やっちゃった、とばかりに笑った。

「すみません、つい、職業柄」

彼女は事前に聞いていた通り、源氏名である杏子と名乗った。ひとくちカフェ・モカを口にすると、何聞きたいですか、と彼女は発音した。そのくちびるの動きにふと、目を奪われていた。

「……どうかしました?」
「あ、いや、改めまして、私、首都放送の番組制作記者、小野水月と申しまして、今回の取材意図は、歌舞伎町で女性の居住地を作っている方がいらっしゃると聞いて、その取材に参りました」

私の拙い説明に杏子さんは笑顔で頷きながら、まあそんな立派なもんじゃないですけど、と言って、薄青のカラコンが入った目でじっと私を見つめて、話し始めた。

「ホントに、そんな立派なもんじゃないんです。家出てきちゃって、でも行き場所がない子たちがこの近辺にはたくさんいるの。私も結構稼げるようになって、そういう子見てると昔の自分を見てるようで。それでシェアハウス買って、私も住んでるので定員十人なんですけど、今八人は住んでるかな」

一気に話しきった杏子さんはカフェ・モカを飲んで、見に来ますか、とニコニコした。無論見に行きたいが、住んでいる他の人たちは大丈夫かと確認したところ、テレビ来るかもって言っておいたので大丈夫ですよ、とのことだった。
それから、杏子さんにいくつかの事を訊いた。行政に望むこと、住んでいる女性たちの現状、これからシェアハウスをどうしていくか。幼少期の話を聞こうとすると、彼女はふと顔を曇らせて、それは後でもいいですか、と言った。人前でできる話じゃなくなりそうなので、という彼女の言葉に、私は頷くしかなかった。

汚れてはいないが生活感は確かにあるリビングには、取材と聞いてだろうか、すっかりフルメイクの女性が三人もいた。おそらく高校卒業直後だろうという女の子はミエと名乗り、キョーコさんホント優しいよね、と話し始めた。女相手ということもあるのだろうか、物怖じしない。

「あたし、高校の時はチョーコミュ障で。クラスの女子とすら、まともにしゃべれなかったんですよ。それがこれ。ね、凄いでしょ?」

そうでなければ生き残れないのだろうか。性格を変えたんですか、と聞くと、あったりまえですよとミエはからから笑った。アタマ悪くて、運動できなくて、コミュ障って、救いないじゃないですか、で簡単に治せるのがコミュ障だった、と。

「まあ人によると思いますけどね。勉強のが楽ってコもいるだろうし。あたしはセーカク変える方がやりやすかったってだけ。あ、あと、メイクね」

後日、テレビカメラを入れてもいいか、その確認のために来たことを思い出して、その旨を伝えると、全員が全員、ウェルカムです、と頷いてくれた。無論、顔も声も隠すつもりだ、と伝え、日時の候補を決め、連絡の窓口として杏子さんとラインを交換した。
帰途に就く。山手線に乗り込んでぼんやりと窓の外を眺めていると、通知音が音楽に割り込んできた。生い立ちについては別日の電話取材でもいいか、という杏子さんからの申し出だった。いつでも大丈夫です、ご希望の日程を送っていただければ、と返信する。音楽は再生を続け、私は山手線に揺られながら、彼女に感じた既視感の尻尾をどうにか掴もうと努めた。電車に、学校帰りだろうか、制服姿の少女が幾人か乗り込んできて、溢れ出すように、ドトールでの既視感が再来した。
高校の同級生に、あの笑顔がいた気がした。電話取材の後、確認してみようと思って、メモ機能を立ち上げた。

帰社したのは結局、夕方のニュースの真最中だった。同僚が手を振ってくれたが、それだけ。今日の取材内容をまとめようとパソコンを立ち上げる。頭上のモニターから流れてくるのは殺人事件のニュースだ。全くもって気が滅入る。さっき性格を変えたと笑ったミエさんを思い出して、よほど人に迷惑をかけているわけでもないのに性格を変えねば生きていけない社会とは、と考えて、キーボード上の手が止まった。
今日の取材成果を書き記したファイルを保存して、書類仕事に入った。未だ事務仕事の割合も多い。杏子さんから、じゃあ明日にでも、とラインが入る。彼女の仕事に支障を来さないよう、午前十時からと取り決めた。

意を決して電話したんですよ、と杏子さんは言った。電話越しでも昨日とは響きの違う声に、私は少し身を固くする。きっと今まで聞いたことのないような世界が待ち受けている。スピーカーフォンにして、録音の用意をして、手元にメモ帳を用意して、私は先を促した。

「私が育ったのは東京なんだけれど、高校に入る年に千葉に移ったんです。それはうちの母親が私を、捨てたからなんですけれど。当時の母は今の私と同じように歌舞伎町で働いていましたから、男を作って駆け落ちした体になりますね。まあまだ義務教育までは一緒にいてやろうって気が廻っただけましなんじゃないですか」
「千葉には親戚の方がいらっしゃったんですか?」
「そうです、父親の顔は知らないし、母の親類も祖母しかいなくて、その祖母が千葉の、九十九里に住んでたもんだから、そこに引っ越しました。中学に比べたら田舎だったけれど、仲のいい友達もできたし、成績も悪くなかったし、暮らしは年金と私のバイト代頼みですから余裕はなかったですけど、まあ楽しかったですよ。その祖母も、高校三年の十月に亡くなるんですけどね」
「じゃあ、高校は」
「二学期で辞めました。それで、三月まではバイトしてどうにかお金を貯めて、四月になってすぐに歌舞伎町に行ったんです。私はもうここで働けるんだぞって。母を探すつもりも、初めはありました。初めは妙なのに捕まって、わざわざ貯めてきたお金取られて働かされそうになって、這う這うの体で逃げたこともありましたけど、今の店で働き始めてからは、安定してます」
「……お母様は、その後どうされているかご存じですか?」
「いいえ、分かりませんでした。あまりに分からないからもう吹っ切れてしまいました。歌舞伎町に帰ってきているわけでもないので、まあどこかで一緒になった男とでも暮らしてるんでしょう」

一通り話し終わった杏子さんは、ため息をついて、黙り込んだ。私は話を思い返す。重い話を一気にしてしまってごめんなさい、と電話の向こうで小さく言う杏子さんの声は、どことなく泣いているようにも聞こえた。
沈黙が続いて、やっと私は口火を切った。

「ありがとうございます、大変なお話を明かしていただいて」
「いいんですよ私のことなら。できることなら、私のように捨てられてしまったり、悪徳の業者に騙されてひどい環境に送り込まれたりする女性が減ったらいいと思って、あの家をやっていることもありますから。そういうことをしている人間がいる、その理由の一つでしかないので」
「……と、言うと、他にも理由があるのですか?」
「そのことなんですけど、電話にしていただいたのにはそのこともあって。テレビの力を、貸していただきたいのです」
「……テレビが、できることがありますか」

それは、前からうっすらと疑念を抱いていたところに、前日聞いた言葉と、事前の取材や文献収集を通じて感じた、私の本心だった。ただ事実を伝えるだけの私たちが、今まさに苦しむ人々に、何をできるというのだろう。

「無論、歌舞伎町という特殊な街の現状を見せていただきたいということもありますが……人探しを」
「人探し、ですか」
「ええ。その逃げ出したのは、東京に出てきた年の十二月なのですけれど、ひどい雨が降っていまして。でも傘を買うお金もないものだから駅前で途方に暮れて、そうしたら四十代位の紳士が傘と三万円を渡してくださって、それで人ごみに消えてしまったんです。お礼をまともに言うこともできなかったものだから後悔が募って」
「わかりました、その方の特徴を教えてください」

あくまで彼女の物語は、番組の一部に過ぎない。華やかに見られがちな世界の裏で、凄惨なほどの暮らしぶりをする女性たちの姿も、同じ番組の中で放送される予定だ。それでも、この人探しを番組に差し込むことは、彼女の過去を知る者の一人であろう私の、義務のように思えた。

後日現地で撮影した動画を用いてVTRを作成し、最初の取材から二か月後、番組の最終形を放送した。一つの番組の中でも彼女のパートは、一層のリアリティを持って放送することが出来た、と自負している。彼女の過去、そこに集う女性たちの過去、それは前後に放送された、グレーゾーンのような仕事に従事する女性たちの過去と大差なかった。だからこそ、と彼女は言った。最後の取材で、カメラを真っ直ぐに見据えて。

「あの子たちは、紙一重で掴むべき手を見つけられた、というだけです。路頭に迷った挙句、不法な働き方を強いられていたかもしれない。だからこそ、苦難から逃れてきたのに、今まさに苦難の中にいる人たちが、安心して将来を探せる施設や状況づくりをしてほしい。私が社会に望むのはそれだけです」

番組内で杏子さんには、傘を渡してくれた男性について語ってもらっていた。これでおそらく、番組を見ていればだが、連絡が来るだろう。彼女は、その時貰った三万円がなければ、おそらく死んでいるだろうと語り、部屋の隅に大切に置かれている傘を見せてくれていた。
放送後、様々な感想が届いた。勿論悪意あるものも一定数はあったが、大半は「考えさせられた」とか、「行政にもこの状況を訴えられれば」とかだった。杏子さんへの賛辞は後を絶たなかった。自分のことのようにうれしくなりながら、私は杏子さんにその旨をラインで伝えた。ほどなく返信が来る。

「それはありがたいことです。あれから店でも、何度かお声がけいただきました。高いお酒のご注文を入れていただくことも、厭らしい話、心持ち増えたような気がします。これもテレビの効果ですかね(笑)」

彼女の返信を読み終わったところで、私は次の仕事を始めなければならなかった。ここから先、彼女に関しては、テレビは関係ない私個人の仕事になる。それでも良かった。テレビが力になれることがあれば、全力を尽くす。そうありたくて、テレビの仕事に就いた、ということもあるのだから。

放送から二か月程経った。あの時茹だるような暑さだった台場も、もう部屋の暖房を入れるような気温になってきていた。今年初めてあたたかい珈琲を買って出社した私に、さっき電話来てたよ、と先輩から声がかかる。

「どちら様からですか?」
「鶴海さんって言ったかなあ」
「鶴海さん……?」
「なんか前の、あのドキュメントの歌舞伎町の回、あったじゃない? あれ見て電話したって言ってたよ。若い女性」

そういえば、と、杏子さんの人探しを思い出した。杏子さんとはあの後何度か食事に行ったりするくらいの関係が続いているが、十月に入ってからは私の仕事が立て込んだのもあって会えていなかった。杏子さんは「紳士」と言っていたから、若い女性では望み薄かもしれない。兎にも角にも、折り返してみる。

「恐れ入ります、私、首都放送ドキュメント制作チーム記者の小野水月と申します。こちら鶴海様のお電話で間違いないでしょうか」
「はい、鶴海です、折り返しありがとうございます。朝早くに電話してしまってすみません」
「いえ、こちらこそすぐに対応できず申し訳ないです。先般の放送をご覧いただいたとのこと、ありがとうございます、何かご意見やご感想ということでお電話いただいたのでしょうか?」
「いや、そうじゃないんです。あの、私の父が、昔新宿の改札で傘とお金を渡してきたことならある、というのでお電話したんです。父はどうしても電話したくないというもので、電話は私がするからって説得したんです」
「……そうですか、そのお話を聞かせていただくことは可能ですか? 電話でなくても構わないので、メールでも、直接でも」
「わかりました、聞いてみますね」

しばらく電話の向こうで話し声がして、それから机の引き出しを開くような物音が聞こえた。

「えと、そうですね、何? いつ? 明後日って、土曜だけど、そんな急に大丈夫かな…… 明後日の午前中は大丈夫ですか?」
「はい、土曜なら予定はないです。どちらに伺えばご都合よいでしょうか?」
「はい、どこでお会いする? ……新宿でもいいですか? 多分当時の位置関係とかわかりやすいので」
「承知しました。新宿ですね」

電話を切った後、私は何故か、自分の昔の知り合いに会うような気すらしていた。その日の仕事は、自分じゃないように順調だった。

先方から指定されたのは、予想通り、新宿駅東口だった。店は予約してあるが、その前に当時の話を現場でしたい、とのことだった。十二月に迫った新宿は硬質な寒さを纏い、私は着てきたチェスターコートの薄さを恨んだ。
改札から、遠目に見ても上質な三つ揃いに身を包み、帽子をかぶり、よく磨かれた革靴を履いた、所謂紳士が出てきて、こちらに気づいて小さく手を挙げた。よく見ると、銀縁の丸い眼鏡をかけている。五十代半ばくらいだろうか。

「初めまして、首都放送記者の小野です。わざわざご足労頂きありがとうございます」
「初めてお目にかかります、鶴海恭治と申します。寒い中お待たせしました。……この辺りに彼女はいたんです、土砂降りなのに傘も持たないで」

鶴海さんは懐かしむように話し始め、私は食い入るようにそれを聞いた。彼が万が一にも思い違いをしているわけではないことを確かめなければならないからだ。新宿駅東口、ここから左に歩けば歌舞伎町一番街。鶴海さんは、どこか苦し気に話を続けた。

「大方家出してきたんだろうと思いましたね。そのころは仕事の都合でよくこの辺りにいたので、そういう少女はよく見たんです。でもその彼女は妙に、娘に重なって見えましてね、放っておくわけにはいかなかった」
「電話されたのが、その娘さんですか?」
「そうです。しかし私も帰宅の時間が迫っていまして、何分その日は当の娘の誕生日だったんです。だからとりあえず、持っている傘と、財布の中に入っている一万円札を全部抜いて彼女に渡しました。……僕には、それしかできなかった」

鶴海さんは少しうつむいて黙った後、ふと顔を上げて、それから私に微笑みかけた。

「店に入りましょうか。大方の時間は伝えてあるので、席は取れていると思います」

そう言う彼に付いていき、着いたのはタカノフルーツパーラーの本店。壁際の席に通され、なんでも頼んでくださいねと鶴海さんに言われ、私は恐る恐る紅茶セットのワッフルを注文する。じゃあ僕はフルーツパフェ食べちゃおうかな、と彼は弾んだ声で言った。

「子どものころからこの店が好きでね。誰かと新宿で待ち合わせとというと、僕は毎回この店を選んでしまうんですね。そして、毎回フルーツパフェを食べるんです」

彼はそう言って笑うと、さて、彼女の話ですね、と真面目な顔に戻った。

「実を言うとね、僕はあの行動を、善い事をしたとは思えていないんです」
「……それは、なぜですか?」
「あの時、僕は自分と、自分の家族のことしか考えてはいなかったのです。彼女が今後どうなるかなんてことは、考えていなかった。当座困っている人にお金を渡すなんて、お金を持っていれば誰でもできることなのですよ。老子の言葉ですが、人に授けるに魚を以ってするは、漁を以ってするに如かず、と言います。本当に彼女を思ってすることなら、警察に連れていくなり、ホテルまでは連れていくなり、うちに連れていって暫く泊まらせるでも良かったはずです」

私は自分の身のことしか考えていなかった、と鶴海さんは小さくため息をついた。

「目もくれずに行ってしまう人ばかりの中で、気づいて行動しただけでも良いのではないでしょうか」
「そう言っていただけると少々ほっとしますね」

私が絞り出したせめてもの慰め擬きに、鶴海さんは少し微笑んで返してくれた。全く慰めにはなっていないのだが。フルーツパフェとワッフルが運ばれてきて、食べましょうか、と鶴海さんはやっと表情をはっきりと和らげて言った。

彼女が会いたいと言っていました、と伝えると、鶴海さんは西瓜を飲み込んで、そうですか、と言ってから考え込んだ。

「いえね、僕もお会いしたいとは思っているんですが、申し訳なくて、会っても良いものやら分かりませんで……彼女が良いなら、良いのですが」
「彼女、傘を返したいと言っていました」
「そうですか、じゃあ、お会いしましょうかね……いつなら良いでしょうか」
「彼女と連絡を取ってみます。空いている時間が分かり次第、連絡を差し上げればよいでしょうか?」
「お願いできますか、では、よろしくお願いします」

会った時と同じように、新宿駅の東口で別れた。地下鉄に下る階段の手前で私が振り向くと、人混みの向こうに帽子を振る鶴海さんが見えた。

とはいえ杏子さんも鶴海さんも仕事があり、結局予定が組めたのは年末だった。杏子さんは先に私に会っておきたいと言って、鶴海さんとの待ち合わせの一時間前に、初めて会ったドトールで待ち合わせた。この日も夕方からは杏子さんは仕事があるので、昼間の待ち合わせである。

「お待たせしました、お久しぶりです」
「お久しぶりです。……緊張してます、私。手が震えてるんです昨日から」
「ちゃんと、見つけられてよかったです」

杏子さんはふう、と息をついて目を閉じ、ところで、と小さく口にした。私は彼女を、じっと見た。

「私、昔小野さんにお会いしましたか? 今の今まで忘れていて申し訳ないのですが、昔お会いしたような気がしていて」
「高校の時に、同じクラスになったことがあると思います」
「やっぱり、そうですよね、クラスにいたような気がしたんです、小野さん。お顔にも見覚えがあって」

杏子さんは、それが分かれば良い、というふうに、ほっとした表情でカフェラテを口にした。私も彼女のことをそれ以上に知ろうとは思わなかった。彼女は最早、歌舞伎町に生きる杏子さんでしかないのだから。
外はさっきまで晴れていたのに俄かに掻き曇り、今にも雨が降りそうだった。鶴海さんとの待ち合わせの時間が近くなる。店を出たときには、もう新宿は豪雨だった。

私は遠くから見ていますから、お二人でお話しください、と私は言った。杏子さんはただ頷き、待ち合わせの場所である東口の改札前に歩いて行った。既に遠くに、チョコレート色のコートを着た鶴海さんが見えた。
遠くから二人のシルエットを見ながら、私は口の中に残る紅茶の味を感じて、雨に煙る新宿を眺めていた。二人が何を話しているのかは全く聞こえなかったが、杏子さんが傘を返したのだけはしっかりと目に焼き付けることが出来た。二人の話が落ち着いたであろうタイミングで加わろうと思ったのだが、話は尽きそうになかったので、杏子さんに、私は先に失礼します、とラインを送った。杏子さんがこちらを見て小さく頭を下げたのを見て、私はひとり、地下鉄へと下りた。
電車が走る轟音が私の耳に響く。結局杏子さんの本名を確認することはなかったけれど、私はこれで十分だと思っている。私だけが知っていれば良い事だ、とも思う。彼女はその名前をもう、捨てたのだから。夕方近くになって混み始めた大江戸線の中で一人、私は自分の仕事を、はじめて誇ることが出来るような気がした。
最寄り駅に着き、階段を上ると外は既に湿った夜だった。私は濡れた空気を吸い込んで、左耳に付けた小さなピアスに触れた。仕事で会うとは思わなかった、と改めて思い返す。街は薄青く煙って光っていた。私は家へ帰る道を歩きながらピアスを外して鞄に仕舞いこんだ。どこからか流れてきたキャラメルソースの香りが鼻を衝いて、私は私の初恋を手放す準備がやっと出来た。