投票してきた

初投票、してきた。2020年都知事選。
超楽しみ、というのが前日までの感想だった。選挙公報めちゃくちゃ読んだ。気になる人は調べた。今までのどの投票(生徒会とか)より楽しかった。何のためにこれをやるのか、そのビジョンがとてつもなく大きかったから。

当日になっても私は2人で迷っていたけれど、とりあえず鉛筆と整理券を持って投票所へ行った。整理券を係員の人に渡して、投票用紙を貰う。この瞬間、めちゃくちゃ大人になった気がした。うわあ、私、選挙権持ってるんだ。
投票所で、どうしよ、と考えた。まだ2人の間で迷っていた。迷って、そして、よし、こっち、と決めた。鉛筆で書いた自分の文字が、いつもと違った。
投票箱に紙を入れた時、なんか、感動した。うまく言葉にはならないけれど、感動した。大人だあ、と思った。

今、投票に行かないと言う人は思い出してほしい。初めて投票に行った時、すごく大人になった気がしませんでしたか?私、大人だあ、とおもいませんでしたか?
この状況というのはあるけれど、私は本当に楽しかった、というか、ワクワクした。私は世界に意思表示した、という、妙な興奮があった。
というわけで(何のわけだ)、投票へ行こう。オチも何もない、それだけの話である。

真面目であることの美

私はチャラい人間がわりと苦手である。
チャラい人間と一括りにしてしまうのはいかがなものかとも思うのだが、まあやっぱり私もある種見た目で人間を50%判断してしまう人間の一派ではあるので、怖いというか、多分私には縁遠い人だなあ、と思ってしまう。そういう人たちと関わることはなかったし、私の学校にはいなかった。だからテレビとかで見ると、ウッとなる。分からん、というのが一番の感想なのかもしれない。

そんな私が、EXITに出会った。勿論テレビでだが。

当初は、苦手なタイプの人たちだなと思った。見た目からしてチャラい。言葉もチャラい。そりゃそうだそのキャラで売ってんだから。髪染めてるのが、インパクト大。茶色くらいなら全然大丈夫なのだが、ピンクかあ。フィクション感が否めなくて、二次元なら大丈夫なんだけれど、リアルで髪がピンクの人を当時見たことが本当になかったので、ちょっと驚いてしまっていた。

でも、話すのをきいて、また驚いた。ああ、外見によるバイアス。
めちゃくちゃ真面目な人たちだったのだ。

もう一度彼らをみるきっかけになったのは、友人が漫才を見始めたことだった(彼女が見ているのは宮下草薙だった)。そんなに面白いか?とか思いながらいくつかテレビを見て、そうして彼らの真面目さに気づいたのである。
いろんなことを考えている。何なら、今まで自分が真面目であると思っていた私より真面目に考えている。りんたろー。さんのnoteを覗いてみたりしたが、情報を手に入れて考えていること、でもわからないことがたくさんあること、学び続けたいこと、全部真面目に記述されていた。私なんかより真面目だ。ワイドナショーの兼近さんは、勿論キャラ付けとしてのチャラい語彙は使うんだけれど、各方面に考えを及ばせながら、思慮を働かせながら、発言していることがよく分かった。
そして兼近さんが読書家で、又吉さんが勧める本を読んでいる、なんてことも知った。太宰ファンの私大歓喜である。太宰は読んでいるのかな。まあ読んでいるだろうな。どれが好きなんだろう。本の虫というか、活字中毒というか、私にはそういう傾向があるので、本が好きというだけでなんだか好感度爆上がりなのだ。

そんなこともあって私はEXITに最高にハマっている。漫才もきちんと笑えるように作ってある(勢いで笑わせるタイプではない)し、ニュースについてコメントを求められてもちゃんと答えているのが、真面目であることの美しさを示しているように思う。
彼らが過去に苦労してきたことを、私は他人としてWikipedia等のコンテンツからしか知らないけれど、そのような背景を抜きにしても、彼らの真面目さは美しいものだと思う。彼らが苦労して紆余曲折の後にそれを身につけたから、ではない。真面目であるという美徳は、見た目を、言葉を、形式を変えたところで、必ず表出するものだからである。
頑張ることに意味がある、というような精神論的言説はどちらかと言えば嫌いな方なのだが、真面目であるということが美徳であるのは確かで、それは何故かといえば真面目さは、何物も損なおうとしないし、何者も排除しないからである。物理的に頑張れない人間はいても、不真面目にしか生きられない人間には私は会ったことがない。人間多分皆、何物かに対しては真面目であることができる。それをより多くの、自分が興味を抱きづらいような対象に向けることができる人に対して、私は尊敬の念を覚える。

あくまで私の考えだが、彼らは、チャラいというタグ付けで登場しているけれども、事実常識そのものであり、まっとうそのものである。どうも趣味が時折登場してしまって申し訳ないのだが、坂口安吾の『不良少年とキリスト』にこういう文がある。

くりかえして言う。通俗、常識そのものでなければ、すぐれた文学は書ける筈がないのだ。

彼らの漫才は、思考は、おそらく文学そのものである。人間皆そうなのではないかと思う。しかも、彼らの文学は、通俗、常識であることからすぐれた文学である。まっとうであり、常識であり、通俗(これは、世の中の思考からそこまで外れていないということを示すと思われる)であるから、だからこそ彼らの漫才、思考とそこから生み出される言葉、人生を語る姿は、すぐれた文学となる。
実は真面目、と語ることを、彼らについては私は好まない。彼らは「実は」真面目なのではなく、ただ真面目であり、まっとうであり、だからこそその上にキャラクターを乗せられるのである。乗せたキャラクターがさも本来の姿であるかの如く「実は」という言葉を使うことは私は好まない。
彼らが紡ぐ思考はある種の文学、しかもすぐれた文学である。私は彼らの文学を、もっと読み進めたいと思う。文章が偉そうになってしまったが、彼らの文学、形式としては漫才だったり話し言葉だったり書き言葉だったりするけれども、それは真面目であることの美を具現化した、言葉のとてもうつくしい形であると思う。

さよなら真冬の夜の夢

受験生をやっている間に、一生に一回の恋をした。
仰々しいが本当である。
そもそも恋とは何ぞやなど、18かそこらの小娘にわかるはずがなくて、彼氏がいたこともあるけれど、彼には失礼だが子供の遊びみたようなものだった。そいつと別れた後も、別に泣いたりしていないし、今でも友達だ。
でもたぶんあれは恋だった。
激烈だし、大きすぎたし、叶わない恋だった。

弁解するが初めはファンだったのだ。
3年になって初めて私の授業を持ったその人は、高校に入ってから(我が母校は中高一貫なのだ)うちの学年を持った人だった。高1頭の自己紹介で「修学旅行先で見かけても石を投げないでください」などと言ったため、あいつはやべえぞ、と皆なんとなく思っていた。私もその一人だった。
高3初めての授業の日、その人はプリントの束だけ持ってふらりと教室に現れて、挨拶もすることなく、プリントを配り、否、係に配らせはじめた。そんな先生はそういなかった。
その人はよく分からなかった。生徒の名前は覚えてないし、授業開始から3分は遅れるし、授業が終わったらすぐ帰ってしまう。質問するには、終了と同時にふらりと教室を出て行く彼を、追いかけていくしかなかった。
数学が大嫌いな理系だった私にとって、その人が持っていた数3という教科は、正直無理だった。だけど、なんとなく、この先生当たりなんじゃないか、とは思った。無理だったので授業で寝てたし、テストの点は散々だったけど、段々面白いってことが分かってきた。というか、彼がそれを、世の中の他のどんなものより面白がっているということが分かってきた。

いつから、ふんわりと、好きになったのかは分からない。
夏休みに、数学で100点をとれると銘打った彼の数学語りを2時間3日間聞き続けた頃からかもしれない。
文化祭の後夜祭でバンドアレンジの乃木坂の曲をマジで歌っていたのを見た時かもしれない。
他の何気ない授業の時かもしれない。
とにかく、10月23日には、私はMK5といった感じだった。
配られたプリントの、授業で解説がなかった問題を全部解いて、持って行った。質問の予約までとって、放課後を待った。髪を結び直して、唯一持っていた香水(といっても、香りは薄くしかつかないやつだ)をふった。恋する乙女などという言葉はしかし、笑い飛ばせていた。
質問そのものはかなりとんとん拍子にすすんだ。幸いにも、私が出した答えはほとんど合っていた。どうも距離が近くて、いつものボルドーのシャツがカーディガンの袖口から覗いていた。指が長かった。
一通り聞き終わって教室を離れようとした。そうだ、と声をかけられて、どうして今まで正気でいられたのか分からないくらい緊張した。恋か?これ、と思った。
お嬢さん、お名前は、と聞かれた。
あ、○○(名字)です、と名乗った。
いや名乗ったあとの記憶がほとんどない。多分なんか話した。覚えてないけど。
前述のように、この人は生徒の名前を覚えていない。数少ない、名前を覚えている生徒の中に、私は入ったのだ。ただそんなことは私は考えなかった。
お嬢さん、である。
控えめにいってもこの人は人と話すのが下手だ。その人の呼びかけが、お嬢さん。
だめだこれ、と思った。

その後、他のクラスの人たちから、あの先生結婚してるらしいよ、と教わった。
私の恋は音を立てて終わった。終わったというか、終わらせることにした。終わるわけがないのだけれど。
機会があれば顔を見ようとした。そのたびに辛くなった。授業のたびに、数学に集中するのに必死だった。

ずいぶん経った。私は大学受験を終えて、卒業式に臨んだ。あの空気を読まないウイルスのせいで縮小されてしまったが、まあそれなりの規模だった。
担当教員はほとんど壇上にいる、という状況の中、彼も無論壇上にいて、その姿は多分一生忘れられないだろう、と思った。

これで全てだ。まあ、恋らしくないといえばそうだし、よくまあ恥ずかしげもなく、ともいえるだろう。
ただ私は今でも、彼の歩き方も、口調も、指の長さも、克明に思い出せる。それはもう恋ではないけれど、きっとずっと記憶に残り続けるだろう。
さよなら、真冬の夜の夢。あなたに恋ができて、私は幸せでした。

親の顔が見てみたいってやな言葉だ

女性の権利保護とかよくわからないが(なんかもうされている気がするのは私がぬるま湯生活をして来たからだろうか)、フェミニズムはとりあえずまっとうなもので、フェミニズムを語っているというだけでクソフェミと叩くのはアホくさいなと思う。人間と主張は分けて考えなければいけない。生活背景もそうだ。そうかそうか、可哀想な人生おくってきたから人を刺してもしょうがないよね、とはならないし、情状酌量の余地という言葉は濫用されてはいけない。
その点、親の顔が見てみたいという言葉は嫌な言葉だなあ、とつくづく思う。
そいつがバカなのは親の教育のせいではなくてそいつがバカだからだ。経済的理由で高校に行けませんでしたとかは可哀想だなあと思うし、戦闘機買う金で政府が補助金だせよとも思うけれど、親に金を出してもらって大学まで行かせてもらってその末に捕まるバカはそいつがバカだ。芸能人の親(親が芸能人の場合も、本人が芸能人の場合も含むのでこういう言い方にしてみた)が謝罪会見やるのが意味分からん。親の顔じゃなくそいつの精神構造を見てみたい。図式化してほしい。
同じ理由で、親を逃げ道にして差別的発言や行動を正当化するバカもちょっと話しかけないでほしい。例えば、私の母は、デートで女が財布を出すなんて有り得ないし、7cm以上のヒールを履いていないと女の子でいる意味がないし、コミケで本出すようなオタクは気持ち悪いし、同性愛者の親は孫の顔が見られないから同性愛者は親不孝でどうしてこういうおかしな人たちが生まれてくるかわからないという価値観の持ち主だ。そんな人とずっと同じ家で生きてきてなお、私は、デートでワリカンを申し出ない男って家父長制に染まってそうで怖いよなとふんわり思うし(そもそも人と金銭の負担に差分が生じるのが嫌)、ヒール履こうがスニーカー履こうがスカート選ぼうがパンツ選ぼうが手前の勝手だと思うし、恋愛には千人いたら千通りあるだろうから同性愛だって異性愛と同等だと思うし、同人誌出したい腐女子だし、子供は欲しくない。家に一人だと寂しいので結婚はしたい。DINKS上等。
例が長くなりすぎたが、一番言いたかったのは、親にそんなに影響されてないだろアンタ、ということだ。毒親とかだと影響されているかもしれないが、世の大抵の人たちはそうではないはずだ。だから手前のそのアホ発言を親のせいにすんなよ。親が可哀想だわ。
親と子供は別人格だと強く自覚しないと、親と子供を同一視してしまう。気をつけよう(自戒)。

LINEニュースの恋愛記事ってヤツ

Twitterの皆さまの中に、LINEニュースの恋愛記事におこの方がいるみたいだ、ということは把握している。じゃあTwitter以外にもいるんだろうな、とも思う。
個人的にはあの記事たちは男性及び女性の異性への嗜好が現れていて興味深いのだが、批判サイドもなかなかな指摘をしている。
批判勢は大抵女性であり(男性が0とは言ってないので注意)、その御意見は、曰く。

「男/女の為に服着てない」

「男/女の為に喋ってない」

「こっちの生き方に口出すな」

正しいよ、その言説。ただ、そこにそんなにエネルギーを割いて怒る必要あんのかな、という単純な疑問。
あの記事の書き手たちは、各人の生き方に各人の自由があることくらい百も承知で、その上で「モテ」なる追加コンテンツを手に入れる為の精神的または物質的課金の方法を書いているだけ。課金をしなくても強いゲーマーがいくらもいるように、そんなことしなくてもモテるヤツは男女関係なくモテる。

ああいう記事の問題は、「こうじゃなきゃダメなのかな」という不安を無駄に煽ることなのだが、断言してしまえば、「こうじゃなきゃダメ」なんてことは一つもない。存在しない。ただモテを手に入れたい人はこうすると一定数の異性にウケがいいかもね知らんけど、ぐらいのアレと取ってもいいんじゃないかい。
そんなことせんわいという人はそんなことせんわいでいいし、オッいっちょやったるかという人はそれでいい。大体万人受けなんて存在しなくて、大多数の顔をした一定数にウケるかもしれないね知らんけどぐらい。だと思っている。三十代過ぎたって小花柄のスカートとふわふわブラウスが似合う女の人がいたって不思議じゃないし、クラッチバッグを持ってる男の人のことが好きな女性もいるだろう(私がそう)。男性についても同じ。ピチッとしたスキニーが似合う男の人もいるだろうし、ムートンブーツを履いてる女の人を好む男性もいておかしくない。所詮そこに書いてある意見はその27歳会社員の女性とかその24歳アパレル業の男性とかの好みであって、同じ肩書きで好みがまるで違う人がいたっておかしくはない。

あとあのたぐいの記事、あんまり同性へのイメージ記事ないよな、とふと思う。

違和感持ってすいません

宇崎ちゃんの話が燃えていて今更その話書いてもなぁという感覚なので他の話します。

LINEニュースで知った、すいません禁止の居酒屋。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191021-00010018-abema-soci

いや、コンセプト自体には反対しない。名前で呼ばれることのメリットは英語の教材でやった気がする。ナポレオン三世は、紹介されたことのある人の名は全て覚えていたという。
私がモヤったのはここだ。

「女の子のスタッフは○○ちゃん
男のスタッフは呼び捨てで結構です」

きもちわるいいいい。もやもや。

今時小学校の先生が男女関係なくさん付けで呼ぶご時世、初対面のスタッフさんをちゃん付けまたは呼び捨てで呼ぶほど私は神経が図太くはあれない。「女の子」と「男」という言い分けをしてしまうあたりなんとなく書き手の意識が窺える。見ず知らず初来店のおじさん/おばさんにちゃん付け/呼び捨てで呼ばれた女性/男性店員はどう思うんだろう。同性でもちょっと引くのだけれど。

例えば佐藤さん(女性)と佐藤さん(男性)がいたとしたら下の名前まで呼ぶのは妥当だろう。けどちゃんて。呼び捨てて。私は無理だ。
とか言うとじゃあ行くなとか言われると思うので言っておきます、行くつもりあまりないです。まだ居酒屋行く年でもないんで。

神さまに会うこと

その「神さま」に会ったのはいつのことだったろうか。
当時の私は、オタクにありがちな妄想癖を持て余して、形にできなかった。見かける広告のキャッチコピーにエモさを感じても、それを言葉にすることはなかった。ただの、消費者だった。
神さまは、突然現れる。
広大なネットの海から、彼女の作品を見つけ出したのだけは私の成果かもしれない。タイトルが浮き上がって見えた。ああたぶん私が求めているものはこれなんだ、そう思って読み始めた。
文章の全てが煌めいていた。私は文体の好き嫌いが激しいほうで、市販されている小説にさえも手をつけないことがあるのだが、その人の小説は、次元が違った。キャラが生きて、喋って、笑って、泣いて、恋をしていた。遡って全部読んで、これが私の神さまだ、そう思えた。
更新を待った。Twitterでフォローした。新作が出たら、ブックマークしていいねした。そして、私は創作するようになった。
創作といっても二次創作だから、何もかも初めからではないし、彼女の作品も、二次創作だ。だけど、自分で文章を書くのは、読んでいるだけより、何倍も楽しかった。この人がいなきゃ書いていないな、と思った。
イベントに参戦するというツイートを見て、一般参加の友人に手紙を託した。お手紙を友人に託しました、とマシュマロを送った。
返事が来た。マシュマロを下さった方へ、と始まるその手紙は、黒のボールペンでかしかしと書かれて、私の宝物になった。煌めきが封筒の中に封じ込められていた。
そのうち、彼女がスランプに陥ったようだった。更新されない小説ページ、病みがちなツイート、それでも彼女は私の神さまだった。その薄暗いツイートの中から、たまに出てくるSS名刺メーカーの文章の中から、煌めきは確かに感じられた。そのスランプは、たぶん彼女が優しすぎる故のものだったのだろう。私は待った。心配になって、マシュマロを送ったりしながら、待った。
新作が更新された。まずは一読。
煌めいていた。煌めきはそのままに、海底の暖かさを備えたような作品だった。コメントを送って、Twitterのアカウントの鍵を外して、更新お知らせのツイートを何も考えず引用リツイートして、「義務教育」とコメントを添えた。
連続して来た更新に、嬉しくてマシュマロを送った。そうしたら直接連絡が来た!相互フォローになって、手が震えた。嬉しかった。
受験も近いからな、とTwitterのアカウントを消して、彼女とLINEを交換した。いろんなこと、それこそかなり立ち入った私の闇まで話してしまった。彼女はどこまでも親身になってくれた。いつまででも神さまだった。
迷った。ネットで知り合った人と直接会うのはリスクが高い。けど、この人なら、と思えた。文化祭に誘った。お茶会にお呼びした。そして、直接、会った。
見ず知らずの若造に、彼女は優しすぎるくらい優しかった。終始挙動不審な私が、もっとお話聞きたいです、と厚かましいお願いをしても、人とお話しするのあまり得意じゃないんだけど、と言いながらニコニコ話してくれた。高校の時テニプリ流行ってたよ、こうやってみんなで羆落とし!とか言って、とニコニコする姿は当たり前にいるお姉さんのようで、神さまだと思っていた人が普通の人だったと知った。
だからといって神聖さが失われたとは露ほども思わない。いつまでも彼女は私の神さまのままだ。ただ、頭の中で偶像崇拝が可能になっただけ。彼女は、ずっと、神さまのままだ。私が、彼女には遠く及ばないけれど仮にもものを書けるようになったのは、彼女が私の神さまだったからだ。